本質を読み取る作業時間とその間の個と社会のつながり具合みたいなもの

 id:terustarさんのエントリー「本質を読み取る技術」に違和感を感じてつらつら考えております。
 以下、口語というか、脳みそ垂れ流し文で読みにくいのですが、メモ書きだと思ってくださいませ。

 表現や用例にまず最初は違和感を感じたのね。

大人達はどう答えたでしょうか?



「お魚は海が好きだからだよ」


 まず、この例を挙げた段階で、こじつけというか、自分の理屈のためにステレオタイプ的なものを持ってきたと思ってしまったのね。
 なぜならば、ウチの両親はこんな答え方をしなかったから。しなかったし、父方の兄弟はほぼ全員(それぞれの職業的な背景によって答えは違うが)科学的な返答をするorしようと努力をしたのね。
 だから、こういうよく漫画で見るようなありきたりの「大人の返事」を提示されると、辟易するわけです。
 まず感じるのが『それって本当に実際になされる問答なのか?』って事。
 少なくとも我が家ではありえなかったから、この用例が非常にうそ臭く感じられるのです。
 いかにもありそうな、どこかの小説や漫画の1シーンから持ってきたような問答で、現実世界には実はないんじゃないかと思われるわけです。

 じゃあ、我が家ではどうなったか。父や母が私の質問に答えられなかったら。
 次の日曜日は全員で図書館とか博物館とか行く羽目になるんですよ!
 こども心に
「失敗した・・・遊園地じゃなくて博物館かよ」
って思ったもんです。
 だけど、じゃあ次回は動物園に行かれるようにするために、質問することをやめたかっていうと、次の質問を思いつく頃にはそんなことは忘れているわけです。いや、覚えていたかもしれないけれど、質問することをやめる方が(こどもながらに)ストレスだったんじゃないか。口がすべるというか、思いついた質問が脳みそだだもれで口から出る、それがこどもなんじゃないか。
 脳みそっていうのは、考えること・質問が溢れてくることをやめられるようには出来ていないように感じる。


だから

あるいはなぜ、「背景をしっかり考えない」のか?

なぜ「自ら思考を停止」するのか?




それは自我が崩壊するからです。

 と書かれてしまうと、自我の崩壊? しないしないw と思ってしまう。


 なぜ? なぜ? なぜ? の繰り返しの中で、「我を消す」は分かるけれど、それで自我が崩壊するっていうのはないでしょう。なぜ崩壊しなければならないかについて、terustar氏は
 「生きていることに意味はない」
の設問に行き着くことを挙げているけれど、それは小学校くらいのころに家族で話していて出てきてしまって、では、私は崩壊したかと言うとしていない(と思っている)から。

 ただし、そこには
「では意味とは何を持って意味とするか」
がつきまとうのです。

 意味がなくても楽しい、ということを私は、少なくとも私の家族は容認しています。

 例えばうちに来る野良猫は可愛い。
 可愛いと感じることに意味はないのです。
 でも可愛いと思う。撫でるとやわらかくて気持ちいいと思う。いとおしいと思う。
 意味はない。
 でも、そこにプラスの感情は生じる。
 コレは何だろうと思う。脳内のドーパミンやら快楽やらの説明にたどり着くわけですが、それと、じゃあそれに意味があるかは別問題なのです。

 いあ、生物学的に「そうすることで、幼少のものを生かしておこうとする行動が発生するので、育児が成り立ち、遺伝子の確保ができるから、小さく丸いものを可愛いと思うことには意義がある」んですが、それと実際の目の前にいる猫を可愛いと感じることはイコールかと言うと、体感的にイコールとは言いがたいわけです。


 両親が自分を愛している、ということと、愛に意味があるか、ということは別問題です。


 私的経験でいうと、
「生きていることに意味はあるか」
という設問に対して、両親が答えたのは
「生きていることに意味はない可能性が大きい。
 ただし、両親としていえば、キミが生まれてきたことは両親として非常に嬉しいという事実がある。
 それは全世界や学問の世界からすれば意味はない。
 が、私たち(両親)にとってはキミの存在に意義がある。
 誰かが誰かのいることを嬉しいと思う感情を発生させる、という事実でもって意義がある」


 じゃあ存在→愛の根拠である両親が死んだら? 両親が子を愛していなかったら?
 存在意義がなくなるのか?

 それは個体個体にとっての問題であり、全体の問題ではないでしょう。
 自我が崩壊するとしたら、両親が自分を愛していないとなったときで、「生きているという事象に意味がない」と気づいたときではないのではないか。

普通の人はどうしても思考停止せざるをえないところへぶつかります。

『自分は、はたしてこの会社に必要なんだろうか?』

あるいはこれに似た類の自分の無能感。「これじゃない感」です。



そんなのもう!当然、徹底抗戦です!!

「これじゃない感」を放置して、そこから先へは潜りません!!

後は堂々巡りです。

自分がいなくても会社が廻るなんて信じたくない人です。

 これは理解できます。
 が、

いわゆる天才はここで自我を一度捨てます。

自分の利益とか、こだわりとか、

普通の人が絶対捨てない我をまったく惜しげもなく捨て、

さらに深く潜ります。


 え?
 凡人であっても、「自分がいなくても会社が廻る」ことを前提に問題に直面し続けられる人は居ると思うんですよ。




 さて、ここからが本題です。
 長い前置きでした


 ここまで考えて、気づいたのですが、teruyastarさんと私では、
社会と自分
の結びつきが違うんじゃないだろうか。

 関係性、というか。

 社会っていう気体の構成要素(OとかNとか)が個人(ひとつのOでしかなく、CO2ですらない、ただのO1個)であるとして、では、O1個1個がなくて「空気」が成り立つかと言えば成り立たない。でもO1個が消えても空気そのものは成り立つ。
 それが私の立ち位置なんだけれど、teruyastarさんはもっと際立った個人というものを、個人に求めている気がする。

 個人っていうのは社会に対して「埋もれた存在」で、それは天才であっても凡人であっても大差がない。
 社会の転機になる天才が現れても、その天才によって「社会全体」が消えたり再構築されたりはしない。
 って私は思うんだけど。


 あ〜まだ考えが足りないな。
 ちょっと考えよ。



 ん〜と。
 質問をやめることで、自我が社会に埋没され、安定することを感じる。
 質問し続けること・自分とは何かと考え続けることが自我の存続だと感じる。
 だがそれを続けることは対社会からすると、その絆よりも、自分の内側への飛行を優先させてることにより、社会との絆を弱めることになる、と感じる。

 今日思いついたことはここまでです。




 思考の旅は長いヨ。