コピーを超えて(4/10追記)
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51197078.html?1239154954
思うところはコメント欄に書かせてもらったのでもういいやw。
コピー(過去からある伝統であるところの「躾」や、先駆者が作成した義務教育課程の勉強)を拒否してどこが天才かと。
楽譜が書けない音楽の天才はいるが、彼らは先駆者の作った音楽を演奏したり歌ったりするコピーができる。それも高い質で。
九九ができない数学の天才はいない。九九を理屈として納得するまで記憶の努力を始めない天才はいるが、最終的には理解し記憶する。
模倣があってその向こうに到達するのが天才で、先駆者を軽んじた段階でそれを超えた「向こう側」はありえない。
<4/10追記>
私が書くよりずっとうまく私の言いたかったことを書いていらっしゃる方がいた。
http://blog.n-i-agroinformatics.com/article/273?trackback
>自分で考えるよりも素直にうまい人の真似ばかりをする。
>有名な塾に行っては最適な受験テクニックを真似、
>一番記憶に残る勉強方法を真似、
というのは東大の中ではせいぜい中層程度までの人で、最上層には勉強を勉強だなんて思ってない、好きなことをやっていたらいつのまにか高校程度の勉強は余裕でできるようになっていた、という人がいる。
そもそも良質なコピーをしようと思ったら、オリジナルの背景までちゃんと理解している必要がある。たとえば数学だと、定理を定理として使うだけじゃなくてその証明はきちんとできるようになっておく、などということだ。そいうことを突き詰めていくと、「自分で考える力」とコピーの力との境界は極めてあいまいになる気がする。
そう、要領の悪い人は罪悪感云々以前に質の高いコピーなんてしたくてもできないんだ。そこには質の高いinputが必要になるから。
だから学校教育が悪だとするなら、それはその質が一定レベルに達していないことによるものだ。
質の低いコピーならしてもしなくても一緒なんだから、非難されるのは当然のことだろう。
「背景をしっかり考えること」
多分、それが一番教育に足りていないことなんだろうな。<<